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神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月14日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画

タイトル ◆勉強したくてもできなかった母◆
藤本 永子 73歳(無職 南あわじ市)
 八幡神社にある忠魂碑の
戦没者名簿に母の兄の名前
が刻まれている。早い時期
に亡くなったらしく、野辺
送りが印象的だったと母は
言っていた。その霊を、実
家である母の弟の家族が遺
族として守っている。
 昭和3年生まれの母は、
向学心に燃えて女学校に進
んだ。しかし戦争中だった
ので、勉学はかなわず工場
作業ばかりに明け暮れた。
その時の悔しさを、後に娘
である私によくぶつけてき
た。「お母ちゃんらは勉強
したくてもさせてくれなか
った。平和な時代に生きて
いるあなたたちは、いくら
でも勉強できるのに」。と
はいっても、思うように成
績が伸びない時は、そんな
母親がうとましかった。
 晩年仕事から引退した母
は、同級生の友人とともに
老人大学や公民館活動に走
り回った。青春時代を取り
もどしたかったのだろう。

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月14日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶりとかを後世に伝える企画
タイトル ◆全世界に今こそ平和宣言を◆
豊島 英俊 83歳(無職 神戸市西区)
 昭和天皇の敗戦宣言の日
から、日本国民は生死の苦
難とともに「自由と平和」
の喜びを獲得しました。
 「よく学び、よく遊んで
頑張れば、好きな仕事に就
けるよ」と聞かされながら
育ちました。
 戦争は決して再び起こし
てはならないと教育され、
現在はその「不戦の意」を
強くしています。戦争は、
その国の軍事力を掌握した
権力者によってのみ引き起
こされます。そして「国家
を守るため」との扇動で、
お互いに何らの憎しみもな
いのに、各国の兵士は戦場
で殺りくを繰り返していま
す。最近の戦争は、以前と
違って終結できなくなって
います。病院や食料の輸送
を襲うなど、人道主義さえ
持たない専制独裁者に対す
る方策は何らありません。
わが国は、地理的にはロシ
ア、中国、アメリカの中間
に位置しており、紛争の渦
中にあります。
 日本国憲法に基づいて、
戦争武器を全国的に放棄し
ている、と世界に対して
誠意をもって平和宣言をし
てはいかがでしょうか?

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月12日投稿文
幼い頃の戦争体験、終戦直後の暮らしぶり等、後世に伝える為神戸新聞の企画

タイトル ◆やっと神戸に戻れる◆
水上 貞子 89歳(無職 神戸市中央区)
私が終戦を迎えたのは国民学校4
年生。姫路の母方の伯父の家に縁故
疎開していた時でした。3月に神戸
の学校が空襲で全焼し、集団疎開か
縁故疎開するようにとの学校からの
通達により、私は幸いにも母方の伯
父伯母が引き受けてくれました。
 8月15日は天皇陛下の放送がある
というので正午に隣保長の家に全員
集まり、聞きました。でも私は何を
言われているのか全然分かりません
でした。大人の方たちがすすり泣く
姿に戸惑っておりますと、伯母が戦
争に負けたと教えてくれました。
 私は、戦争は終わった。母のとこ
ろに帰れるのだ。とものすごくうれ
しかったのを忘れることができませ
ん。伯父、伯母は大変よくしてくだ
さいましたが、学校では都会者と呼
ばれ、誰一人も友達になってくれま
せんでした。終戦の日に見た夕日は
今でも脳裏に焼き付いております。

タイトル ◆姫路空襲を避けて生まれて◆
谷 綾子 79歳 (主婦 朝来市)
幼い日、誕生日の頃にな
ると母は「あんたは運のい
い子なんやで」が口ぐせだ
った。
 昭和20年7月4日朝、母
は戦争中のこともあり、ま
た年子の兄がいたことで、
九州で里帰り出産をし、私
は生まれた。姫路空襲の2
回目が7月3日から4日未
明だった。兄が生まれ、私
もそこで生まれるはずだっ
た病院のある姫路市内周辺
は、お城が残ったのが不思
議なほど一面焼け野原と化
し多くの命が奪われたこと
を後に知った。母と私は生
きてはいなかったのだ。姫
路市平和資料館を訪ね改め
て母の口ぐせを確信した。
 終戦を迎えるこの時期に
なると、母の口ぐせを思い
出す。そして今、何とか元
気で79歳の誕生日を迎えら
れたことは、私は「運のい
い子」なのだろう。
 昨年、母の三十三回忌の
法要を無事済ませた。

タイトル ◆銃後の母の頑張りを目にして◆
土肥 可越里87歳 (無職 加東市)
 昭和16年7月、田植えを
済ませた暑い日に、父は出
征していきました。
 その日から母の苦労が始
まりました。幼い私をつれ
て家を守り田畑を耕さねば
なりません。20代の若さで
朝早くから夜遅くまでまっ
黒になって働いておりまし
た。
 あぜ草を鎌で刈って牛に
食べさせていました。草刈
りについていって、あぜで
遊んでいたのを思い出しま
す。母方の祖父がよく来て
田の仕事をしてくださって
いました。昔は全て手作業
でした。足踏みの脱穀機を
前にして「この機械が分解
できたら、1人で田んぼへ
もっていけるのに」と思案
顔で言った声が今も耳の奥
に残っています。収穫した
お米は全て「兵隊さんに食
べていただく」と言って供
出しておりました。母の人
生を狂わせた戦争。戦争だ
けはしてはなりません。仲
良く平穏に暮らせる日が来
るのを祈ります。

神戸新聞、正平調書き写し

4月にドラマが始まってから小欄に
も何度か登場してもらったが、今日
こそ触れないわけにはいかない。N
HK連続テレビ小説「虎に翼」の主
人公、寅子(ともこ)のモデルになった三淵嘉
子(みぶちよしこ)さんである◆女性初の弁護士、家庭裁判
所の母・・・と日本で女性の社会進出を先導し
たが、世界に最も影響を与えたのはアメリ
カの原爆投下を「国際法違反」と断じた原
爆裁判だろう◆原爆の違法性を問う世界初
の裁判は、終戦から10年後の1955年に
提起された。原告は、広島と長崎で家族の
ほとんどを奪われた被爆者5人。うち1人
は広島で被爆し、戦後は宝塚市で暮らした
岩渕文治さん◆被告は、サンフランシスコ
講和条約で米国への賠償請求権を放棄して
いた日本政府だ。その政府が「戦争終結を
早め、両国の人命殺傷を防いだ」と、原爆
投下を容認するかのような主張をする中で
の裁判だった◆理由は二つ。その無差別性
と残虐性である。戦闘員ではない市民を巻
き込み、放射能は一生、体をむしばむ。判
決の理念は被爆者援護法や核兵器禁止条約
につながった◆この8年間にわたる裁判で
裁判官3人のうちすべての口頭弁論に参加
したのが三淵さんだった。判決にどんな思
いを込めたか、彼女は何も語っていない。
ただ法の力を信じたのだろう。 2024・8・6

神戸新聞、正平調書き写し 末尾にちょっと我がコラム

人間には暑さに強いタイプと寒さに
強いタイプがいるらしい。わが職場
で昨日、たまたま周囲にいた人に聞
いてみると、夏派は3人、冬派は4
人だった。みなさんの周りはどうだ
ろう◆断然夏派の筆者にとって、寒くなる
と穴ぐらや土の中で冬眠するクマやカエル
はあこがれの的だったが、最近は違う。今
うらやましいのはイカナゴだ。夏の間、ふ
かふかの砂のベットにもぐり込み、眠り続
ける◆瀬戸内に春を告げる「くぎ煮」で知
られるイカナゴは、水温が20度を超える7
月上旬から12月ごろまで夏眠(かみん)に入る。その
間、じっと動かずに代謝を抑え、餌もとら
ない◆夏眠の理由ははっきりしないが、大
事な産卵期を前に外敵から身を守り、体力
を温存しているようだ。漁獲量の急減に危
機感を抱いた地元漁協は今年、夏眠前のイ
カナゴに初めて大量の餌をまいた。長い夏
休みを元気に乗り越えるための支援物資で
ある◆ならば連夜、冷房の効いた部屋でせ
んべいをかじり、寝転んでパリ五輪を観戦
中の自分はイカナゴとそれほど変わらない
かも◆各競技の決勝は日本時間で深夜から
未明になるから、時差ボケのようなだるさ
を抱えたまま仕事をしている人は多いだろ
う。深く自省しつつ、空前のメダルラッシ
ュにテレビから目が離せない。2024・7・31

ちょっと我がコラム
イカナゴの夏は砂の中で眠るって事、知らなかった、春を告げる
姫路の名産「イカナゴのくぎ煮」は凄く有名なんだけど私はチョット苦手だ、値段も高すぎるし何か泥の匂いが生臭く感じる、そうなんだ、夏眠する砂の布団が原因なんだ、その匂いが体に付いてしまってるのかな?

神戸新聞、コラム正平調書き写し、末尾に我が追憶コラム

1910(明治43)年4月、山口県
沖で演習していた海軍の潜水艇が沈
没した。捜索は難航し、翌々日に引
き揚げられたが、艇内は満水で乗組
員14人全員が死亡していた◆操艦ミ
スによる事故を美談に変えたのは、艇内で
見つかった艇長の遺書だった。最後まで職
務を全うした乗組員の沈着ぶりが記され、
国内外から称賛を受けた◆この「6号潜水
艇」は神戸市の川崎造船所(現・川崎重工
業)が採算度返視で建造した国産第一号だ
った。遺書で艇長は「これの誤りもって将
来潜水艇の発展に打撃をあたうるに至らざ
るや」と憂えた。打撃どころか、日本の潜
水艦は乗組員の規律の高さによって評価を
高め、川崎は潜水艦建造を続けた◆戦後も
再び潜水艦建造を受注してきた川重が、潜
水艦乗組員に便宜を供与してきたことが明
らかになった。架空取引で十数億円の裏金
を捻出し、飲食代や商品券、生活用品、工
具などを提供していたという◆明治海運は
美談を吹聴して当時の軍拡反対世論に対抗
したといわれる。かたや防衛費が膨張を続
け、海上自衛隊の不祥事が相次ぐ今、国民
の視線は厳しい◆なれ合いに染まった後輩
の不始末を、先人も嘆いていよう。神戸ゆ
かりの潜水艦建造の闇を払うため、防衛省
には厳正な対応を望みたい。 2024・7・28

ちょっと我がコラム
私の兄が中学校を卒業後直ぐ川崎重工に就職した、母は14・5歳の男子を連れて戦後の神戸はガレキの山、家も何もない、焼け野原の中を会社まで連れて行ったらしい、ガレキの中でコモや、ムシロを囲いにし、七輪で煮炊きしていたと言っていた、神戸の街の中では、ムシロなどは手に入れる事はとても困難、会社にも少し慣れた頃、今日は進水式やといって少しマシな服なんか着て行ってた、それは潜水艦だったのか?私は旅客船か遊覧船だと思ってた、そんな中、世間は物不足当たり前、月に一回ぐらいだったかしら?会社の誰かさんに貰ったと、クジラの皮を持ち帰ってくれてた、今考えたら約3Kぐらいの絡まりだった様に思う外側は真っ黒で車のゴムのタイヤみたいな内側に白い油の層がタイヤと油で10cm位の厚さだったかな?7・8歳位だったので大きさは違ってるかも?それは大層なごちそうに思えて嬉しかった、今其の事を聞きたくても母も兄もこの世には・・・あれって貰ってはいけないものだったのか?

神戸新聞、コラム正平調書き写し

前例がなく理解不能な事件が起きた
とき、まず考える。これは「例外」
的か、あるいは「象徴」的な事件な
のか。例外的なら社会が学ぶことは
少なく、象徴的であれば教訓に満ち
ている◆七夕決戦と呼ばれた東京都知事選
は驚くことの連続だったが、さすがに首都
の舵(かじ)取りを選ぶ選挙だけあって今後の教訓
に満ちていた。数日たち、冷めた頭でそう
考える◆56人もが立候補し、そもそも知事
になる見識も覚悟もない人の売名行為が多
くあったことはここでは置く。今回、時代
の象徴と呼べそうなのは「石丸ショック」
だろう◆既存政党を批判し、ネットを駆使
して支持を広げた若き改革者ーこれが今の
ところの石丸伸二氏の評価だが、気になる
のは同じ日にあった "古巣〟の安芸高田市
長選で石丸氏の政治手法を批判した新人が
当選したことだ。「分断はうんざり」と地
元の声◆古巣での4年近くは市議会と激し
くやり合う動画をSNSで拡散し、全国的
な知名度をあげた。対立を先鋭化して注目
を集める「論破政治」に嫌気がさしたーと
も映る◆「民主主義とはゆっくり機能する
ものです。テキパキやりたいなら独裁主義
にしないとねェ」と永六輔さんの無名人語
録にある。説得と納得をおろそかにしても
ネットは瞬時にスターを作る。 2024・7・11