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神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月14日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画

タイトル ◆ひもじかった思いとともに◆
大谷 茂 78歳 (無職 姫路市)

 昭和21年、豊岡市日高町
の山あいの農家に生まれた
私は戦争を知りません。記
憶は6歳の頃からです。村
立幼稚園1期生。衣食住の
つらさが家族や地域に染み
ていました。衣は繕い物ば
かり。明かりはなく、川水
とまきで炊き物。わら屋根
で隙間だらけの部屋。
 食事は、空腹の虫を抑え
たい欲求のみ。主食の米は
供出制度のため、残された
分では足りず、大麦で補充
し、なおかさ上げのため芋
類を入れたご飯。副食はな
く「すきっぱらにまずい物
なし」が母の口癖でした。
 近くの山から切り取った
細竹を釣りざおに、ミミズを
餌に釣り上げた川魚を、ご
ちそうだと母は喜んでくれ
ました。直接戦争体験のな
い私には、戦後数年たった
頃からの記憶に残る日々の
ひもじかった思いが、終戦
の傷跡と感じます。そして
たくさんの自然からの恵み
があればこそ。人もまた自
然界の一部なのですねえ。

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月14日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画

タイトル ◆祖母の悲痛な叫びに思う◆
菅 せつみ 81歳 (主婦 姫路市)
 父方の叔父は、1945
年、フイリピン・ルソン島
の戦いで、23歳で命を落と
したと生前の父から聞きま
した。父も、もう一人の叔
父も戦争に行きましたが、
無事帰還しました。
 無事帰還した叔父に対し
て、母親である祖母が「な
んで帰って来たんや」とと
がめたそうです。跡取りだ
った父はおとがめなしだっ
たそうです。貧しい小農家
で家族が9人もいたので、
食いぶちが1人でも少ない
方が家計が助かるというわ
けです。到底祖母の本心で
はなく、夫を早く亡くし、
働き手の息子3人を戦争に
取られ、9人家族の長とし
て頑張っていた祖母の悲痛
な叫びでであったと理解して
います。すべて戦争のせい
なのです。
 ロシアやウクライナ、イ
スラエルやパレスチナの紛
争は、一日も早い終結を祈
るばかりです。

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月14日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画
タイトル ◆戦争のない世の中に◆
 奥田 千春 84歳 (主婦 加古川市)
 終戦から今年は79年目。私の父は
終戦後、シベリアに5年余り抑留さ
れ、60㌔あった体重が38㌔に減り、
それでも、昭和25年秋に帰ってきて
くれました。
 今も世界の至るところで戦争が起
きていて、たくさんの尊い命が失わ
れています。世界中の人たちが声を
あげて、話し合って、戦争を止める
ことはできないのか。この私たちの
地球は少しずつ衰えてきています。
こんな世の中なのだから皆で分けあって
助けあって、平和に暮らすこと
は難しいことなのでしょうか.
 私には男の子の孫が2人います。
戦争になって戦地に駆り出されるよ
うなことがないよう、強く願ってい
ます。
 世界の偉い人達よ、どうか英知
を力のかぎり出し合って戦争のない
世の中にしてください。

神戸新聞、正平調書き写し 末尾にチョット我がコラム 

9回特攻に出撃して、9回とも生き
て帰ってきた人がいる。「体当たり
しろ」「必ず死んで来い!」。そう
命令する上官にあらがい、敵艦に爆
弾を落として帰還した。佐々木友次(ともじ)
さん、当時21歳◆特攻とは飛行機ごと、あ
るいは人間魚雷となって敵に突撃する決死
の攻撃のこと。なのになぜ、そんなことが
できたのか。上官や周囲は何と言ったか。
だれもが抱く疑問に迫ったのが作家の鴻上
尚史さんである◆佐々木さんは、陸軍の最
初の特攻隊「万朶(ばんだ)隊」に選ばれた名パイ
ロットだった。2017年に出版された「不
死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗した
か」(講談社現代新書)に印象的なやりと
りが書いてある◆技術の高いパイロットほ
ど一撃一死の特攻は無駄だと考えていた。
万朶隊の隊長自身がそうだったと文献や証
言で明らかにしている。佐々木さんは言っ
た。「死ななくてもいいと思います。その
代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を
命中させます」◆そして終戦。すでに特攻
で散ったとされ、実家の北海道で盛大な葬
儀も済んでいた佐々木さんは、ひっそりと
92歳まで生きた◆79回目の終戦の日が巡り
来た。死を命じられてなお自分を貫いた人
がいる。国家とは、個人とは、佐々木さん
から学ぶことはあまりにも多い。2024.8.15

ちょっと我がコラム
この記事、涙なくして読めない、戦争現場のむごたらしさ、国の政策、上下関係、肉親関係、周囲との交わり、自身の判断力も想定しながらいかに生きるか?・・・本当に戦争って駄目駄目駄目XXXXX

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月14日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画

タイトル ◆勉強したくてもできなかった母◆
藤本 永子 73歳(無職 南あわじ市)
 八幡神社にある忠魂碑の
戦没者名簿に母の兄の名前
が刻まれている。早い時期
に亡くなったらしく、野辺
送りが印象的だったと母は
言っていた。その霊を、実
家である母の弟の家族が遺
族として守っている。
 昭和3年生まれの母は、
向学心に燃えて女学校に進
んだ。しかし戦争中だった
ので、勉学はかなわず工場
作業ばかりに明け暮れた。
その時の悔しさを、後に娘
である私によくぶつけてき
た。「お母ちゃんらは勉強
したくてもさせてくれなか
った。平和な時代に生きて
いるあなたたちは、いくら
でも勉強できるのに」。と
はいっても、思うように成
績が伸びない時は、そんな
母親がうとましかった。
 晩年仕事から引退した母
は、同級生の友人とともに
老人大学や公民館活動に走
り回った。青春時代を取り
もどしたかったのだろう。

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月14日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶりとかを後世に伝える企画
タイトル ◆全世界に今こそ平和宣言を◆
豊島 英俊 83歳(無職 神戸市西区)
 昭和天皇の敗戦宣言の日
から、日本国民は生死の苦
難とともに「自由と平和」
の喜びを獲得しました。
 「よく学び、よく遊んで
頑張れば、好きな仕事に就
けるよ」と聞かされながら
育ちました。
 戦争は決して再び起こし
てはならないと教育され、
現在はその「不戦の意」を
強くしています。戦争は、
その国の軍事力を掌握した
権力者によってのみ引き起
こされます。そして「国家
を守るため」との扇動で、
お互いに何らの憎しみもな
いのに、各国の兵士は戦場
で殺りくを繰り返していま
す。最近の戦争は、以前と
違って終結できなくなって
います。病院や食料の輸送
を襲うなど、人道主義さえ
持たない専制独裁者に対す
る方策は何らありません。
わが国は、地理的にはロシ
ア、中国、アメリカの中間
に位置しており、紛争の渦
中にあります。
 日本国憲法に基づいて、
戦争武器を全国的に放棄し
ている、と世界に対して
誠意をもって平和宣言をし
てはいかがでしょうか?

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月12日投稿文
幼い頃の戦争体験、終戦直後の暮らしぶり等、後世に伝える為神戸新聞の企画

タイトル ◆やっと神戸に戻れる◆
水上 貞子 89歳(無職 神戸市中央区)
私が終戦を迎えたのは国民学校4
年生。姫路の母方の伯父の家に縁故
疎開していた時でした。3月に神戸
の学校が空襲で全焼し、集団疎開か
縁故疎開するようにとの学校からの
通達により、私は幸いにも母方の伯
父伯母が引き受けてくれました。
 8月15日は天皇陛下の放送がある
というので正午に隣保長の家に全員
集まり、聞きました。でも私は何を
言われているのか全然分かりません
でした。大人の方たちがすすり泣く
姿に戸惑っておりますと、伯母が戦
争に負けたと教えてくれました。
 私は、戦争は終わった。母のとこ
ろに帰れるのだ。とものすごくうれ
しかったのを忘れることができませ
ん。伯父、伯母は大変よくしてくだ
さいましたが、学校では都会者と呼
ばれ、誰一人も友達になってくれま
せんでした。終戦の日に見た夕日は
今でも脳裏に焼き付いております。

タイトル ◆姫路空襲を避けて生まれて◆
谷 綾子 79歳 (主婦 朝来市)
幼い日、誕生日の頃にな
ると母は「あんたは運のい
い子なんやで」が口ぐせだ
った。
 昭和20年7月4日朝、母
は戦争中のこともあり、ま
た年子の兄がいたことで、
九州で里帰り出産をし、私
は生まれた。姫路空襲の2
回目が7月3日から4日未
明だった。兄が生まれ、私
もそこで生まれるはずだっ
た病院のある姫路市内周辺
は、お城が残ったのが不思
議なほど一面焼け野原と化
し多くの命が奪われたこと
を後に知った。母と私は生
きてはいなかったのだ。姫
路市平和資料館を訪ね改め
て母の口ぐせを確信した。
 終戦を迎えるこの時期に
なると、母の口ぐせを思い
出す。そして今、何とか元
気で79歳の誕生日を迎えら
れたことは、私は「運のい
い子」なのだろう。
 昨年、母の三十三回忌の
法要を無事済ませた。

タイトル ◆銃後の母の頑張りを目にして◆
土肥 可越里87歳 (無職 加東市)
 昭和16年7月、田植えを
済ませた暑い日に、父は出
征していきました。
 その日から母の苦労が始
まりました。幼い私をつれ
て家を守り田畑を耕さねば
なりません。20代の若さで
朝早くから夜遅くまでまっ
黒になって働いておりまし
た。
 あぜ草を鎌で刈って牛に
食べさせていました。草刈
りについていって、あぜで
遊んでいたのを思い出しま
す。母方の祖父がよく来て
田の仕事をしてくださって
いました。昔は全て手作業
でした。足踏みの脱穀機を
前にして「この機械が分解
できたら、1人で田んぼへ
もっていけるのに」と思案
顔で言った声が今も耳の奥
に残っています。収穫した
お米は全て「兵隊さんに食
べていただく」と言って供
出しておりました。母の人
生を狂わせた戦争。戦争だ
けはしてはなりません。仲
良く平穏に暮らせる日が来
るのを祈ります。