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神戸新聞、コラム正平調書き写し

戦時中、大阪鉄道局長の職にあった
後の首相、佐藤栄作は疎開先の丹波
篠山から列車で通勤した。運輸通信
省の本流から外れ左遷に消沈した日
々だったが、戦後の公職追放を免れ
て出世の道が開かれる◆高度成長に支えら
れ、7年8カ月の長期政権を築く。米国と
有事の際の核再持ち込みの「密約」を交わ
しながら、核拡散防止条約への署名や非核
三原則を理由にノーベル平和賞を受賞。今
も評価が分かれる◆同じく首相を務めた岸
信介とは実の兄弟だが、2人は分家の子で
兄は父の実家である岸家に、弟は本家にそ。
れぞれ養子に入った。家名を残すことが何
よりも重んじられた時代のことだ◆政治家
一家はともかく、今は親の都合による婿養
子はあまり聞かない。東北大の吉田浩教授
の試算では、結婚時に夫婦どちらかの姓を
選ぶ現行の制度を続けると、500年後に
日本人は「佐藤」のみになる可能性がある
とか。元首相も望むまい◆「選択的夫婦別
姓」制度導入の是非は自民党総裁選でも争
点となった。賛成派が名字への愛着などを
挙げる一方、家族の絆や一体感が弱まるな
ど反対も根強い◆結婚し名字が変わる不利
益は特に女性が感じている。導入に賛成の
立場を示す石破茂さんが新首相になる。機
運は高まる。有言実行なるか。2024・9・29

神戸新聞、コラム正平調書き写し

栗山英樹さんが日本ハムファイター
ズの監督時代、大谷翔平選手を「1
番・投手」で起用したことがある。
さすがの二刀流も度肝を抜かれたら
しい。「ホームランを狙って、空振
りしてきます」。そういって打席へ向かっ
たら◆初球をいきなりホームラン。1番・
投手の先頭打者本塁打はもちろん日本初だ
った。予想を上回る指揮官のアイデアが若
き野球選手のわくわく感を引き出したのだ
ろう◆大谷選手のエピソードはどれも人間
離れしているが、ここまで極端なストーリ
ーは漫画でも描けまい。大リーグ・ドジャ
ースでシーズン50本塁打、50盗塁の「50-
50」を達成したきのうの活躍は、離れ業だ
った◆6打数6安打10打点、3打席連続ホ
ームラン2盗塁ー。長打で三塁を狙いアウ
トになったシーンで送球が少しでもそれて
いたら、1試合で単打、二塁打、三塁打、
本塁打を全て放つサイクル安打も実現して
いた◆ハンマー投げの金メダリスト、室伏
広治さんの言葉より。「水の下に行けば水
圧でプレッシャーを感じるし、水の上に行
けば浮輪みたいに浮くし。自分次第ですよ
ね」◆昨夜、盛り場では「フィフティ、フ
ィフティに乾杯!」の声があちこちで上が
っただろう。野球ファンでなくても虜(とりこ)にし
てしまう「水上の人」である。 2024・9・21

神戸新聞、コラム正平調書き写し

これこそが最先端だ。明るい未来に
きっと役立つー。最初はそう思えた
発見や技術、知識が、後になって人
類や地球に悪影響を及ぼすことはよ
くある。例えば鉛、フロンガス、ア
スベスト◆沖縄と奄美大島に放たれたマン
グースもその一例だ。発案者は当時、動物
学の権威だった渡瀬圧三郎・東京帝大教授
とされる◆出張先のインドで猛毒のコブラ
対マングースのショーを見て沖縄のハブ退
治を思いつき、船便で運んだという。その
頃の動物学は、外来生物は積極的に利用す
べきと考え、生態系のリスクという概念は
なかった◆沖縄への移入は1910年、奄
美大島へは79年。ところが昼行性のマング
ースは夜行性のハブをめったに食べず、よ
く食べたのはヤンバルクイナやアマミノク
ロウサギなど島固有の希少種だったから始
末が悪い◆環境省が先週、そのマングース
を奄美大島で「根絶した」と宣言した。島
の貴重な生き物を守りたい、という住民と
行政のねばり強い取り組みが実を結んだ。
これほど大きな島での駆除成功は世界でも
例がなく、生物多様性を守る上で大きな成
果という◆とここまで書いて、ふと不安が
頭をよぎる。今はもてはやされている AI
もいずれ人類の敵になるのでは...。笑い話
で済まないところが恐ろしい。2024・9・11

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月17日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画
タイトル ◆ 沖縄へ慰霊と平和祈念の旅を ◆
 竹内 信六 82歳(無職 明石市)

 父を分骨している延暦寺
にお参りした。父の42年年目
の命日だ。御霊(みたま)の安らかで
あることと、敗戦79年の平
穏を願った。敗戦時、父は
沖縄・伊良部島の守備隊長
をしていた。隣接する宮古
島の旅団本部で終戦の詔書
を受領した。
 沖縄本島南の、宮古島、
石垣島、与那国島がキナ臭
い。防衛省は航空自衛隊の
地対空誘導弾パトリオット
(P A C 3)の配備で主要
機材の移動を完了させた。
 沖縄に小、中の同級生が
いる。社会人になって、ふ
るさとに帰った。
 彼と読谷村にある「さと
うきび畑」の歌碑やシムク
ガマを巡った。辺野古の埋
め立て反対などの活動を続
けている。
 来年の敗戦80年まで元気
でいたい。伊良部島をスタ
ート。本島に渡り、彼とと
もに摩文仁の「島守の塔」
「平和の礎」で黙とう。激
戦地を巡り、慰霊と平和祈
念の旅をしたいと願ってい
る。

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月17日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画
タイトル ◆ 防空壕と防空頭巾  ◆
 坂本 幸子 83歳(主婦 神戸市灘区)

 戦時中、母は私と昭和18年生まれ
の弟を連れて母の実家である岐阜県
へ疎開しました。私は幼くて戦争の
怖さを知らず、覚えているのは床下
に掘った防空壕(ごう)に避難したことと、
いつも防空頭巾をかぶっていたこと
くらいです。
 父は、岐阜県までの交通機関の利用が
かなわず。自転車で尼崎から岐阜ま
で往復したと母から聞きました。
 戦後、昭和20年生まれの妹をおん
ぶし、会社の社宅へ引越したのは
昭和21年の末でした。姉妹が4人に
なり、家族全員で暮らせることの喜
びを感じながら、父母は懸命に働い
てくれました。内職もいろいろ。た
ばこを巻く内職、カバヤのキャラメ
ルの箱詰めなど。また、社宅生活で
いちばんたのしかったのは盆おどり
で、やぐらの上で仮装して踊ったり
輪になって踊ったりしたことは今も
忘れられません。

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月17日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画
タイトル ◆ 祖母の陰膳がよみがえる  ◆
 塩谷 和子 88歳(無職 三田市)
 
 昭和10年生まれの私は、
戦争を体験した年代です。
母には弟(叔父)がいて、
両親(祖父母)とともに町
方に住んでいました。息子
の大学卒業を目前に、多く
の夢を託した幸せな一時期
がありました。大手企業に
就職した大切な息子の元に
容赦のない召集令状が届き
ました。
 一転して「軍国の母」に
なった祖母は、年中4時起
床、武運を祈る氏神参りを
始めました。毎食の卓上に
飾った写真には家族と同じ
ものを「陰膳」として供え
続けました。顔の見えぬ息
子に愛情の全てをかけるこ
とが、自分自身の心の支え
になっていたのでしょう。
敗戦の日が過ぎ、外地から
の引き揚げが終了しても、
正式に広報を手にするまで
続け、はた目にも痛々しさ
を覚えたほどです。
私には遠い日の陰膳の記
憶がよみがえりました。、

神戸新聞、コラム正平調書き写し

1943年の3月上旬、国鉄姫路駅
前のみゆき通りには勇ましい軍歌が
流れていた。5歳だった四間(しけん)一哉さ
んは母に抱かれながら、揺れる国旗
に送られて行進する父の姿を見たと
いう◆この時に出征した陸軍の中隊は、四
間さんの父武治(たけじ)さんが隊長だったことから
「四間隊」と呼ばれた。太平洋戦争の激戦
地ビルマ(現ミヤンマー)で、武治さんを
含め隊員154人が戦死した◆隊員たちが
生きた証を残そうと77年、一哉さんらが
姫路市の名古山霊苑に慰霊碑を建立した。
今も毎年5月に生還者や遺族が集う◆四間
隊が姫路を出発したあの日。抜いた軍刀を
掲げて歩く武治さんに一哉さんの母が駆け
寄った。「最後だからこの子を抱いて」。
軍刀の刃が母の右腕に当たり血が流れた。
母は傷を何度もなで、治った後もいとおし
そうにさすった◆終戦から79年が過ぎた現
在、生の声で戦争を語れるのはほとんどが
そのころ子どもだった人たちだ。一哉さん
の母のような記録に残らない遺族たちの言
葉やしぐさは、子供たちの記憶にのみ残
されている◆その一人、一哉さんは今年の
終戦の日を病院で迎えた。大人たちが戦時
中に何を思い、どう生きたのか。間近で見
聞きした子どもたちから聞いておかねばな
らないことは、まだまだある。2024・9・8