記事一覧

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月16日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画
タイトル ◆ 神有電車の駅で捕虜を見た日 ◆
 尾端 三郎 89歳(無職 神戸市西区)
 
 小学生のときに外国兵の
捕虜を見た。
 遠足だったのか、先生に
引率され神有電車(神戸電
鉄)の駅で電車を待ってい
た。入ってきた電車に半袖
シャツの若い外国兵が集団
で座っていた。
 太平洋戦争の緒戦、勝利
を収めた日本軍は、東南ア
ジアや西太平洋の地域で多
数の連合軍兵士を捕虜にし
た。国内に移送の捕虜はお
よそ3万6000人、収容
所は130カ所に及んだと
いう。神戸市内では、大阪
俘虜(ふりょ)収容所の分所として、
昭和17年に今の中央区にあ
ったオリエンタルホテルの
倉庫を転用、イギリス兵約
400人を収容していた。
小学生のときに見た捕虜た
ちは、このイギリス兵たち
であったのだろうか。
物資の欠乏と重労働、劣
悪な環境により、終戦まで
に全国で3500人の捕虜
が死亡している。神有電車
の駅で見た若い兵士たちの
何人が、故郷に生還できた
のであろうか。

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月16日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画
タイトル ◆ 家が焼けても召集令状は届く ◆
 五熊 典子 70歳(無職 神戸市西区)
 
 「家が焼けてしまったの
で召集令状が近くの小学校
に貼ってあった」と父が言
っていました。
 当時は兵庫区に住んでい
たそう。
 だれかが「小学校に召集
令状が貼ってあったで」と
教えてくれたそうです。
 父は、戦争で中国の満州
に何年か行っていました。
父の兄2人は、南方で戦死
しています。
 平成15年3月に、東京・
市谷の防衛庁に行ったこと
がありました。
 現在は防衛省。
 同じ敷地にある陸軍の建
物を見学しました。大講堂
と陸軍大臣室です。陸軍大
臣室は、こぢんまりとした
部屋でした。
 作家の三島由紀夫が日本
刀で割腹自殺をしたところ
です。
父は、陸軍に行っていたの
で、私にとっても考えさせ
られるところでした。

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月16日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画
タイトル ◆ 子や孫にどう伝えるか ◆
 加古 久美子 68歳(主婦 神戸市西区)

 戦争と戦後生まれの私とを結ぶ接
点は、亡き母と何度も参加した「陸
軍歩兵部隊合同慰霊祭」でした。
 学徒動員で招集された父は激戦の
ビルマ(現ミヤンマー)に派兵され
ました。終戦になり、過酷な引き揚
げ船では「梅肉エキス」をわずかず
つ口に含み、生還したそうです。
 父は、異国の山野で戦死した戦友
たちの供養のため、毎年慰霊祭に参
加しましたが、私が14歳の時に病気
で亡くなりました。父の御霊(みたま)も慰霊
者名簿に合祀(ごうし)してくださいました。
 母は「悲惨なことは思い出したく
ない」と戦争についてあまり話して
くれませんでしたが、住んでいた明
石の街にも焼夷(しようい)弾が落とされ、疎
開先の神戸市西区でヤギや鶏を飼っ
て食料の足しにしていたことなどは
聞いたことがあります。戦争につい
て子や孫の世代にどう伝えていけば
よいのか悩むところです。

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月17日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画
タイトル ◆ 引き上げてよく生き延びた  ◆
 田中 栄一 90歳(自営業 西宮市)

 私は終戦時、満州国奉天
市で国民学校6年生。住民
やロシア兵の昼夜を問わな
い略称や暴動のため、危険
だからと家へ閉じこもりの
状態が何か月か続き、明く
る年の3月、私たちにも形
ばかりの卒業式がやって来
た。七十余人いた同級生で
集まったのは12~13人と少
なく、受け持ちの先生から
ガリ版刷りの卒業証書が渡
された。涙まじりに先生が
言われた「どんな時でも、
どんなことがあっても、日
本人としての誇りを忘れる
な」の言葉が、卒業生に贈
られたはなむけだった。
 その年の6月初め、南満
のコロ島という港から引き
揚げ船で博多港に上陸。故
国の土が踏めた。博多駅前
でその時、引き揚げ援護会
のおばさんから、大きなか
やくご飯のおむすびをいた
だいた。船の中では重湯の
ような食事だったので、と
てもおいしかったのを今で
も忘れられない。家族6人、
家もお金もないのをよく生
き延びたと今思うと感無量
だ。まわりの人々のおかげ
だと感謝している。

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月16日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画
タイトル ◆ 玉音放送にかすかな安堵感 ◆
 中島 英雄 91歳(無職 神戸市灘区)

 小学校6年生の夏、疎開
先の農家の一間に家族全員
が集まり、静かにその時を
待った。正午になってラジ
オから天皇陛下の声が聞こ
えてきた。文語調でよく理
解できなかったが、何とな
く戦争が終わったことだけ
は感じ取れた。放送後、両
親にそのことを確認した私
の心に広がったのは、かす
かな安堵(あんど)感だった。
 それまでは「国のため」
の教育を受け「欲しがりま
せん、勝つまでは」と日の
丸に神風と書いた鉢巻きを
して通学した日々だった。
その後ガダルカナル島の敗
戦、ミッドウェー海戦の惨
敗など、戦局が不利になる
につれ、本土決戦が叫ばれて
る中、次第に募る不安な日
々。それらが一瞬にして消
え去っていく思いが子ども
心をよぎったのだろう。
 やっと「平和」の意味を
実感したのは、もっと後に
なってからのことである。

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月16日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画
タイトル ◆ 決して忘れてはならない日 ◆
 森 美智子 88歳(無職 神河町)
 現在ではあの戦争があっ
たことなど全く知らない世
代が多くなりました。知る
のは老齢者のみといえまし
ょう。
 私は当時小学4年生ごろ
でしたが、終戦当時のこと
を覚えていて今でもよく思
い出すのです。その一つが
何といっても食糧難だった
ことです。両親はよく農家
へ買い出しに行っていまし
た。物々交換だったので、
母の着物はたんすから消え
ていきました。
 今は亡き妹は「カボチャ
は毎日食べさせられたので
大嫌いだ」とよく話してい
ました。当時はサツマイモ
やカボチャがお米の代用食
でした。
 私は当時のひもじさを知
っているので、今でも質素
倹約がモットーです。もっ
たいない精神は生き続けて
います。今、日本は戦争の
ない平和で豊かな暮らしの
中で、人々はぜいたくに暮
らせています。
 戦争は残酷で、何の取り
えも無いのです。どこの国
も戦争だけはしないでほし
い。「終戦の日」は決して
忘れてはならない日です。

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月15日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画
タイトル ◆ 先人に恥じない生き方を ◆
平島 美由紀 56歳(主婦  明石市)

 夫が今年は7月に入っ
て早めの夏休みを取りまし
た。念願だった鹿児島旅行
に、夫と私の実家の母との
3人で出かけました。鹿児
島は母の里ですが、今回初
めて、知覧特攻平和会館を
訪れました。
 戦争のいたましさを伝え
る一つ一つの展示物を見て
回るにつれ、色あせ、年月
を感じさせはするものの、
そう遠い前の時代の出来事
ではないのだ、との思いを
強くしました。少なくとも
85歳の母にとっては、幼く
て当時の記憶は薄いものの
自分の生きた時代にその戦
禍はあったのですから。
 片道の燃料で飛び立った
特攻隊員の方々が命をかけ
て守らんとした日本です。
 今、私たちは戦って散っ
ていかれた先人に恥じない
生き方をしているか自問自
答してみます。世の中の変
化はありますが、日本人の
文化や心を決して失わず、
次世代につないでいくのが
責務だと感じています。