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神戸新聞、コラム正平調書き写し

1943年の3月上旬、国鉄姫路駅
前のみゆき通りには勇ましい軍歌が
流れていた。5歳だった四間(しけん)一哉さ
んは母に抱かれながら、揺れる国旗
に送られて行進する父の姿を見たと
いう◆この時に出征した陸軍の中隊は、四
間さんの父武治(たけじ)さんが隊長だったことから
「四間隊」と呼ばれた。太平洋戦争の激戦
地ビルマ(現ミヤンマー)で、武治さんを
含め隊員154人が戦死した◆隊員たちが
生きた証を残そうと77年、一哉さんらが
姫路市の名古山霊苑に慰霊碑を建立した。
今も毎年5月に生還者や遺族が集う◆四間
隊が姫路を出発したあの日。抜いた軍刀を
掲げて歩く武治さんに一哉さんの母が駆け
寄った。「最後だからこの子を抱いて」。
軍刀の刃が母の右腕に当たり血が流れた。
母は傷を何度もなで、治った後もいとおし
そうにさすった◆終戦から79年が過ぎた現
在、生の声で戦争を語れるのはほとんどが
そのころ子どもだった人たちだ。一哉さん
の母のような記録に残らない遺族たちの言
葉やしぐさは、子供たちの記憶にのみ残
されている◆その一人、一哉さんは今年の
終戦の日を病院で迎えた。大人たちが戦時
中に何を思い、どう生きたのか。間近で見
聞きした子どもたちから聞いておかねばな
らないことは、まだまだある。2024・9・8

神戸新聞、オピニオン発言欄

!!終戦特集!! 8月16日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画
タイトル ◆ 神有電車の駅で捕虜を見た日 ◆
 尾端 三郎 89歳(無職 神戸市西区)
 
 小学生のときに外国兵の
捕虜を見た。
 遠足だったのか、先生に
引率され神有電車(神戸電
鉄)の駅で電車を待ってい
た。入ってきた電車に半袖
シャツの若い外国兵が集団
で座っていた。
 太平洋戦争の緒戦、勝利
を収めた日本軍は、東南ア
ジアや西太平洋の地域で多
数の連合軍兵士を捕虜にし
た。国内に移送の捕虜はお
よそ3万6000人、収容
所は130カ所に及んだと
いう。神戸市内では、大阪
俘虜(ふりょ)収容所の分所として、
昭和17年に今の中央区にあ
ったオリエンタルホテルの
倉庫を転用、イギリス兵約
400人を収容していた。
小学生のときに見た捕虜た
ちは、このイギリス兵たち
であったのだろうか。
物資の欠乏と重労働、劣
悪な環境により、終戦まで
に全国で3500人の捕虜
が死亡している。神有電車
の駅で見た若い兵士たちの
何人が、故郷に生還できた
のであろうか。