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■ 神戸新聞、オピニオン発言欄 |
2024年08月25日(日) |
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■ 神戸新聞、オピニオン発言欄 |
2024年08月22日(木) |
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!!終戦特集!! 8月15日投稿文 子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画 タイトル ◆ 戦争は何も残さない ◆ 丸谷 美佐惠 84歳(無職 豊岡市) 暑い夏の田舎。8月15日 の終戦は鮮明に記憶に残っ ている。 長いサイレンの音が聞こ えた。5歳だった私は、ど こかの家からのラジオの声 を聞いた。 内容は理解できなかった が、それが終戦のサイレン と「天皇陛下のお言葉」だ と、後になって知ることと なった。 時が過ぎて10月の秋祭り の頃、祖父が亡くなり、子 どもである私は家の縁側に 座っていると、軍服を着た 男性が家に入ったので伝え ようとしたところ、それは 次兄であった。兄が兵隊に 行っていたことも知らず過 ごしていたのだった。 祖父の出棺前に兄が帰郷 できたことは、何と不思議 なことだったのだろうと思 い出す。また3番目の兄は 「若い血潮の予科練の...」 と歌われる予科練に入隊し ていて、戦場にたつ直前に 終戦の報を伝えられて難を のがれたという話を聞いた が、精神的にはつらい日々 を過ごしてたらしい。 戦争は何も残らず、悲し みだけは消えない。 |
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■ 神戸新聞、オピニオン発言欄 |
2024年08月20日(火) |
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!!終戦特集!! 神戸新聞社が、幼い頃の戦争体験談や生活ぶり等を後世に伝える企画 8月13日投稿文
タイトル ◆引き出し一つ持って逃げた母◆ 原田 智子 76歳 (主婦 たつの市) 私自身は戦後生まれ。 今まさに弾痕の世代といわ れる後期高齢者である。戦 争について語れることは母 から聞いたことくらいだ。 父は軍人だったようで、 当時大阪に在住。ある日の 夕刻、風呂上りに涼んで いたところ、焼夷(しょうい)弾が目の 前に。その時、母は何を思 ったか、とっさにたんすの 小引き出しひとつを持 って、着の身着のまま難を 逃れた。 結婚の際に両親が持たせ てくれた嫁入り道具などは 全て焼失したようで、たっ たひとつの引き出しを持っ て、姫路の実家に身を寄せ た。物の不自由な時代。祖 父が、洋服だんすや整理だ んす、鏡台までも手作りし てくれたそうだ。私の兄に あたる長兄が病気になった 時も、薬や何の手だてもな く亡くなり、火葬の際も燃 料不足だったという。 引き出しを見ながら話し てくれたが、それはもうな い。
タイトル ◆戦争の怖さを認識して伝える◆ 高見 悦子 80歳(主婦 加西市) 81歳の友達ががんで亡く なりました。彼女は、体を 気遣い、毎日のウオーキン グ、野菜づくりをし、家庭 を切り盛りして明るく元気 いっぱいの人でした。いつ もパワーをもらっていまし た。やさしい彼女を思うと 残念でなりません。ご冥福 を祈るばかりです。 彼女は父親のことはすす んで話しませんでした。一 度だけ聞いたことがありま した。父親を戦争で亡くし 抱いてもらったことも、父 との記憶も全くなく、若い 写真だけで存在を知ってい るとのことでした。国のた め戦争で戦い亡くなったこ とは子供には理解しがた いことだったでしょう。寂 しかっただろうと思うと、 心が痛みます。 戦後79年。当時子供だ った人が亡くなる頃になっ ています。戦争を忘れず、 怖さを認識し、平和で平穏 な日々が続くように願って います。若い人たちにも、 引き継いで守ってもらいた いです。 |
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■ 神戸新聞、オピニオン発言欄 |
2024年08月20日(火) |
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!!終戦特集!! 8月15日投稿文 子供の頃の戦争体験談や暮らしぶりとかを後世に伝える企画
タイトル◆ 不自由なく暮らせる今に感謝 ◆ 坂田 美智子 96歳 (無職 加古川市) 私が小学2年生の年、長 兄が数え年23歳で姫路の陸 軍部隊に入営した。 昭和12年に日中戦争が勃 発、兄は、中支に。中支派遣 部隊へ便りを贈った。 兄は頭を負傷し、野戦病 院から「元気です」と写真 が届き、安堵(あんど)した。 第二次世界大戦になり、 ますますあわただしい世の 中になった。父が他界し、 悲しんでいる時、次兄たち が招集され、母と5歳下の 弟と3人で過ごした。母を 少しでも助けようと、畑の 手伝いをしていた。 15歳で挺身隊へ。陸軍通 信学校、教育隊、機械工場 で神風のはちまきをして仲 間と励んだ。 「かわいい工具に頬すり よせて 花の命も姿もいら ぬ 早く翼が送りたい あ あ愛国の陽はもえる われ ら乙女の挺身隊」 不自由なく過ごせる今を 感謝して過ごしている。 |
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■ 神戸新聞オピニオン発言欄 |
2024年08月13日(火) |
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!!終戦特集!! 8月13日投稿文 子供の頃の戦争体験談や暮らしぶりとかを後世に伝える企画 タイトル ◆我慢する心はよかったのか◆ 山下 久子 89歳(主婦 三木市) 長崎に原爆が投下された 8月9日、私は10歳で小学 5年生だった。私の兄であ る長男が兵隊となり、戦地 に行ったので、家に働き手 がいなくなって、私はよく 手伝いをさせられた。 上の姉は女学生で、学徒 動員として軍需工場で働い ていて、原爆で即死した。 しかし、この連絡がなく、 母は爆心地辺りを数日間探 し回り、水道管から流れて た水を飲んだそうだ。数日 後調子が悪くなり、6か月 後、48歳で亡くなった。 食糧不足で、分けてもら ったサツマイモをを1食に1 個だけとか、粉が手に入っ たら「ダンゴ汁」にして食 べた。戦争に勝つまでは我 慢我慢の子ども心をどうと らえたらよいのか。今にな って思うに、この我慢する 心がよかったのか、手伝え と言われて反抗したことは なかったけれど、雨降りの 夜とか風がある夜に「風呂 の湯がぬるいから火をつけ てこい」と言われ、外に出 てわらに火をつけ、まきを 燃やしていた時、泣きなが らつい「お母さん」と心の 中で叫んでいた。
タイトル ◆理由が何であれ、戦争は嫌だ◆ 田谷 則子 78歳 (洗張業 神戸市兵庫区) 終戦後に生まれた私は、 以来、戦争というものを一 切知らずに過ごしてきまし た。まもなく79歳を迎えま す。 たまたま先日、古い映画 「二百三高地」をDVDで 見ました。たとえ映画であ っても、兵隊さんたちの過 酷さ、苦しさ、悲惨さは、 筆舌に尽くしがたいものが ありました。 過去の日本の戦争もしか り、今現在世界で起こって いる戦争もしかり。上層部 の人間は、実践には出ず、 常に一般人が犠牲を強いら れています。領土問題、宗 教問題と、その理由が何に しろ、戦争とはいかにばか げた行為でしょうか。人間 の欲の深さが根底にあるの でしょうか・・・。 戦争体験はゼロの私です が、そんな体験はこれから 先もノーサンキューです。
タイトル ◆食糧不足の子が長寿に◆ 塚本 勝 96歳 (無職 西宮市) 戦後79年になりますが、戦時中一 番困ったことをはっきりと覚えてお ります。それは食糧不足です。 朝食は重湯。昼は小麦をそのまま 粉砕した粉で作る蒸しパン。夜は米 粒が数えられるほどのおかゆ。これ がわが家の定番でした。 父が自転車店を営んでいたので、 農家の方がお米を持ってきてくれる ことがありました。お米に余裕がで きても、頑固な父は、定番を変えま せんでした。食べられる物は雑草で も食べました。皆が栄養失調寸前の 状態でした。ある日、ぬかでパンを 作りました。まずい食事になれてい るので食べられましたが、後で消化 が悪く胸のつかえに苦しんだのは今 でも忘れません。 栄養失調寸前だった人たちが、今 の日本の長寿を延ばしているのが不 思議です。ばかな戦争が二度と起き ないように祈る日々です。 |
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■ 神戸新聞オピニオン発言欄 |
2024年08月12日(月) |
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!!終戦特集!!8月12日分 子供の頃の戦争体験談や暮らしぶりとかを後世に伝える企画
タイトル ◆異様な空気を察知した夏の日◆ 金志 節子 85歳 (無職 加西市) ある夏の日、祖父と父が 民さんを迎えに家を出た。 私と祖母はバス停へ迎えに 行き、家では親戚の人が待 っていた。 白い箱は、神棚にまつっ てあった。私は民さん(叔 父・民治)を知らない。祖 父母の間に座った。祖父は 短冊のような白い紙を額に おしあて、深々と頭を下げ た。祖母も、父も、パタパ タと音をたてていたうちわ がピタッと止まった。 民さんは白い紙? 私は 異様な空気を察知して台所 に走った。母は無言で、大 鍋でそうめんをゆで、井戸 水で冷やしていた。数日後 民さんの遺影をみた。 月日が過ぎ、私は6年生 になった。サンフランシス コ平和条約調印の大きな活 字を新聞で見た日、受け持 ちの先生が「戦争はない。 君たちは戦争に行かなくて いい」と。家族が出征し戦 死したことは、当時名誉と たたえられたなどと熱っぽ く話された。先生もつらい 思い出があったのだろう。 長い沈黙を破って、私たち に戦争のない国、平和な日 本になるんだと話した。
タイトル ◆戦病死した父の遺髪を迎えて◆ 片山 田佳子 84歳(無職淡路市) 今も地球上で戦争が続い ている現状を、止めること のできない現実が不思議で ならない。 私の父は3人の子どもと 妻を残して戦争へ駆り出さ れた。昭和21年に戦病死の 告知があり、小学1年生の 兄が英霊を迎えに。白布で 包まれた箱の中は髪の毛が 入っていただけだった。そ の時の母の号泣は今も忘れ ることはできない。神戸空 襲で家を消失し、淡路島へ 疎開してからの生活は、悲 しいことが多々あった。そ の中で母が3人の子を育て てくれ、社会人として健や かに生活を営むことができ たことに感謝している。 戦争は、人間に苦しみと 悲しみを与えるだけ。戦争 は二度としてはならないと 思う。 日本は、79年の平和をこ れから先もずっと永久に続 けて、戦争のない国である ように祈念する。 |
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