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2024年09月13日(金) |
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!!終戦特集!! 8月17日投稿文 子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画 タイトル ◆ 疎開先で弁当をはやされた ◆ 谷口 孝一 86歳(無職 神戸市北区)
昭和19年、板宿国民学校 入学。6月、父に赤紙が届 く。母の実家の叔父と相談 して、疎開の4人を受け入 れてもらう。しばらくして 父は、山陽電車で姫路の部隊 へ。満州へ出征する。 私は加西の日吉国民学校 に転校。疎開者は食べ物が 少なくイナゴ、オオバコ、 タンポポなども食べた。弁 当の裸麦を炊いたご飯を、 同級生から「牛のまぐさを 食っとるがいや。俺らは雪 のようなご飯に割り木のよ うなトト添えて」とはやさ れた。遊びは兵隊ごっこ。 山で穴を掘り陣地を作っ た。全校生徒でイナゴ、松の 根、マンジュシャゲの球根 を戦地に送るため取りにい った。 年が明け、叔父も出征。 高等科卒の先輩も水兵の帽 子をかぶり出征した。9月 に入ると叔父も帰宅。私の 父も昭和22年の6月にシベ リアから帰国した。 |
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