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 トレビmamaの仕事場&お遊び記録



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2024/09/13
こちらで

2024/08/25
神戸新聞、オピニオン発言欄

2024/08/22
神戸新聞、オピニオン発言欄

2024/08/20
神戸新聞、オピニオン発言欄

2024/08/20
神戸新聞、オピニオン発言欄



こちらで 2024年09月13日(金)

  !!終戦特集!! 8月17日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画
タイトル ◆ 疎開先で弁当をはやされた ◆
 谷口 孝一 86歳(無職 神戸市北区)

 昭和19年、板宿国民学校
入学。6月、父に赤紙が届
く。母の実家の叔父と相談
して、疎開の4人を受け入
れてもらう。しばらくして
父は、山陽電車で姫路の部隊
へ。満州へ出征する。
 私は加西の日吉国民学校
に転校。疎開者は食べ物が
少なくイナゴ、オオバコ、
タンポポなども食べた。弁
当の裸麦を炊いたご飯を、
同級生から「牛のまぐさを
食っとるがいや。俺らは雪
のようなご飯に割り木のよ
うなトト添えて」とはやさ
れた。遊びは兵隊ごっこ。
山で穴を掘り陣地を作っ
た。全校生徒でイナゴ、松の
根、マンジュシャゲの球根
を戦地に送るため取りにい
った。
 年が明け、叔父も出征。
高等科卒の先輩も水兵の帽
子をかぶり出征した。9月
に入ると叔父も帰宅。私の
父も昭和22年の6月にシベ
リアから帰国した。
 


神戸新聞、オピニオン発言欄 2024年08月25日(日)

  このサイトで終戦特集を掲載したいと思っていたのですが突然ネット環境が不安定になり投稿できない状況です。
よって緊急措置といたしまして↓と併用していきます。

https://torebi.sakura.ne.jp/cgi-bin/diarypro/diary.cgi

ご面倒をおかけしますがよろしくお願いいたします。
 


神戸新聞、オピニオン発言欄 2024年08月22日(木)

  !!終戦特集!! 8月15日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶり等を後世に伝える企画
タイトル ◆ 戦争は何も残さない ◆
丸谷 美佐惠 84歳(無職 豊岡市)
 暑い夏の田舎。8月15日
の終戦は鮮明に記憶に残っ
ている。
長いサイレンの音が聞こ
えた。5歳だった私は、ど
こかの家からのラジオの声
を聞いた。
 内容は理解できなかった
が、それが終戦のサイレン
と「天皇陛下のお言葉」だ
と、後になって知ることと
なった。
 時が過ぎて10月の秋祭り
の頃、祖父が亡くなり、子
どもである私は家の縁側に
座っていると、軍服を着た
男性が家に入ったので伝え
ようとしたところ、それは
次兄であった。兄が兵隊に
行っていたことも知らず過
ごしていたのだった。
 祖父の出棺前に兄が帰郷
できたことは、何と不思議
なことだったのだろうと思
い出す。また3番目の兄は
「若い血潮の予科練の...」
と歌われる予科練に入隊し
ていて、戦場にたつ直前に
終戦の報を伝えられて難を
のがれたという話を聞いた
が、精神的にはつらい日々
を過ごしてたらしい。
 戦争は何も残らず、悲し
みだけは消えない。
 


神戸新聞、オピニオン発言欄 2024年08月20日(火)

  !!終戦特集!!
神戸新聞社が、幼い頃の戦争体験談や生活ぶり等を後世に伝える企画  8月13日投稿文

タイトル ◆引き出し一つ持って逃げた母◆
原田 智子 76歳 (主婦 たつの市)
 私自身は戦後生まれ。
今まさに弾痕の世代といわ
れる後期高齢者である。戦
争について語れることは母
から聞いたことくらいだ。
 父は軍人だったようで、
当時大阪に在住。ある日の
夕刻、風呂上りに涼んで
いたところ、焼夷(しょうい)弾が目の
前に。その時、母は何を思
ったか、とっさにたんすの
小引き出しひとつを持
って、着の身着のまま難を
逃れた。
 結婚の際に両親が持たせ
てくれた嫁入り道具などは
全て焼失したようで、たっ
たひとつの引き出しを持っ
て、姫路の実家に身を寄せ
た。物の不自由な時代。祖
父が、洋服だんすや整理だ
んす、鏡台までも手作りし
てくれたそうだ。私の兄に
あたる長兄が病気になった
時も、薬や何の手だてもな
く亡くなり、火葬の際も燃
料不足だったという。
 引き出しを見ながら話し
てくれたが、それはもうな
い。

タイトル ◆戦争の怖さを認識して伝える◆
高見 悦子 80歳(主婦 加西市)
 81歳の友達ががんで亡く
なりました。彼女は、体を
気遣い、毎日のウオーキン
グ、野菜づくりをし、家庭
を切り盛りして明るく元気
いっぱいの人でした。いつ
もパワーをもらっていまし
た。やさしい彼女を思うと
残念でなりません。ご冥福
を祈るばかりです。
 彼女は父親のことはすす
んで話しませんでした。一
度だけ聞いたことがありま
した。父親を戦争で亡くし
抱いてもらったことも、父
との記憶も全くなく、若い
写真だけで存在を知ってい
るとのことでした。国のた
め戦争で戦い亡くなったこ
とは子供には理解しがた
いことだったでしょう。寂
しかっただろうと思うと、
心が痛みます。
 戦後79年。当時子供だ
った人が亡くなる頃になっ
ています。戦争を忘れず、
怖さを認識し、平和で平穏
な日々が続くように願って
います。若い人たちにも、
引き継いで守ってもらいた
いです。
 


神戸新聞、オピニオン発言欄 2024年08月20日(火)

  !!終戦特集!! 8月15日投稿文
子供の頃の戦争体験談や暮らしぶりとかを後世に伝える企画

タイトル◆ 不自由なく暮らせる今に感謝 ◆
坂田 美智子 96歳 (無職 加古川市)
 私が小学2年生の年、長
兄が数え年23歳で姫路の陸
軍部隊に入営した。
 昭和12年に日中戦争が勃
発、兄は、中支に。中支派遣
部隊へ便りを贈った。
兄は頭を負傷し、野戦病
院から「元気です」と写真
が届き、安堵(あんど)した。
 第二次世界大戦になり、
ますますあわただしい世の
中になった。父が他界し、
悲しんでいる時、次兄たち
が招集され、母と5歳下の
弟と3人で過ごした。母を
少しでも助けようと、畑の
手伝いをしていた。
15歳で挺身隊へ。陸軍通
信学校、教育隊、機械工場
で神風のはちまきをして仲
間と励んだ。
 「かわいい工具に頬すり
よせて 花の命も姿もいら
ぬ 早く翼が送りたい あ
あ愛国の陽はもえる われ
ら乙女の挺身隊」
 不自由なく過ごせる今を
感謝して過ごしている。
 



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