1910(明治43)年4月、山口県
沖で演習していた海軍の潜水艇が沈
没した。捜索は難航し、翌々日に引
き揚げられたが、艇内は満水で乗組
員14人全員が死亡していた◆操艦ミ
スによる事故を美談に変えたのは、艇内で
見つかった艇長の遺書だった。最後まで職
務を全うした乗組員の沈着ぶりが記され、
国内外から称賛を受けた◆この「6号潜水
艇」は神戸市の川崎造船所(現・川崎重工
業)が採算度返視で建造した国産第一号だ
った。遺書で艇長は「これの誤りもって将
来潜水艇の発展に打撃をあたうるに至らざ
るや」と憂えた。打撃どころか、日本の潜
水艦は乗組員の規律の高さによって評価を
高め、川崎は潜水艦建造を続けた◆戦後も
再び潜水艦建造を受注してきた川重が、潜
水艦乗組員に便宜を供与してきたことが明
らかになった。架空取引で十数億円の裏金
を捻出し、飲食代や商品券、生活用品、工
具などを提供していたという◆明治海運は
美談を吹聴して当時の軍拡反対世論に対抗
したといわれる。かたや防衛費が膨張を続
け、海上自衛隊の不祥事が相次ぐ今、国民
の視線は厳しい◆なれ合いに染まった後輩
の不始末を、先人も嘆いていよう。神戸ゆ
かりの潜水艦建造の闇を払うため、防衛省
には厳正な対応を望みたい。 2024・7・28
ちょっと我がコラム
私の兄が中学校を卒業後直ぐ川崎重工に就職した、母は14・5歳の男子を連れて戦後の神戸はガレキの山、家も何もない、焼け野原の中を会社まで連れて行ったらしい、ガレキの中でコモや、ムシロを囲いにし、七輪で煮炊きしていたと言っていた、神戸の街の中では、ムシロなどは手に入れる事はとても困難、会社にも少し慣れた頃、今日は進水式やといって少しマシな服なんか着て行ってた、それは潜水艦だったのか?私は旅客船か遊覧船だと思ってた、そんな中、世間は物不足当たり前、月に一回ぐらいだったかしら?会社の誰かさんに貰ったと、クジラの皮を持ち帰ってくれてた、今考えたら約3Kぐらいの絡まりだった様に思う外側は真っ黒で車のゴムのタイヤみたいな内側に白い油の層がタイヤと油で10cm位の厚さだったかな?7・8歳位だったので大きさは違ってるかも?それは大層なごちそうに思えて嬉しかった、今其の事を聞きたくても母も兄もこの世には・・・あれって貰ってはいけないものだったのか?